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「レトロ」を感じさせるのはデザインなのか時間なのか?

今日は夜勤明けで1時過ぎまでひと眠り。
明日は休み。珍しく日曜と休みが重なりました。


貰い物の豆を挽いてコーヒーいれる。
かといって、キャトルに乗ってるからといって、イタ・フラ車好きが集うカフェのマスターとかに頂いたわけではありませんよ!そんな「おされ」な・・・
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みなさんも急須でコーヒー入れてますよね?


で、今朝(昼)寝起き布団のなかで考えたのが、
「いまの中高大学生は自分が生まれた頃の車やマンガ、音楽に『レトロ』を感じているのか?」という疑問です。

聞きゃあ解るって話ですが・・・^^;
いや、わからないかも。

まえからなんとなく考えてはいたのですが文字にすれば考えも少しはまとまるだろうと。
私は今40歳ですが、12歳くらいのときから(28年前ですよ!)ホーロー看板とか旧車とかが大好きで、当時から古本屋で昔の車の雑誌買ったり、旧いホーロー看板や解体屋に置いてあるラビットスクーターなんかを見つけては「おおっ!」っと驚き胸ときめかせていたわけです。
変な中学生ですかね?

映画「三丁目の夕日」でダイハツミゼットの認知度上がったと思いますけど、28年前すでにプラモデルのレトロカーシリーズみたいな扱いでミゼットのプラモデルは売られていました。28年前すでに「レトロ」だったわけです。ミゼットの中古車も120万円くらいで売られていました。

昭和58年(1983年)に昭和35年(1960年)の車を懐かしむ・・・

あーでも23年は結構長い年月か・・・。
でも今から23年前といったら「R32スカイライン280馬力」なんてののデビュー直前ですからね!「湾岸ミッドナイト」な感じですよ。

R32スカイラインはレトロカーなのか? 
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今二十歳くらいの方に聞いてみたいですね。


私は中1のとき、13年前(自分が生まれた頃)の「箱スカ」をレトロカーとして見ていました。
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箱スカ


中1のときのスカイライン(1983)「鉄仮面」と呼んでました。
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これも旧いけど比較的「今」のデザインですよね?


いまの車好きな中学生は1998年あたりの車をレトロカーとして見ているのかな?
私の歳になると1998年なんつったら「最近」のことといってもいいくらいで記憶もまあ鮮明ですよね。
「薄い記憶」には自分勝手なロマンやドラマが宿りやすいですからねー。レトロにもなり得るかな?
車のデザインも今とそう極端に差があるわけでもない。それは家電製品などにも言えると思います。
私が生まれた頃のテレビや「ステレオ」なんて家具と言ってもいいくらいの大きさで、うちにあったステレオの筐体は実際「木」でできてましたからね!いまの中学生が過去を振り返ったときよりも強く「昔」を感じていたのではないかと思うんですよね。「現在との継続性の薄い過去」みたいな。

でももしかしたら、デザインの極端な変化が少ない分、若い人達はデザインの「全体像」よりは「細部」、または「機能」に重きを置いて違いを求めているようになっているかもしれませんね・・・ありえませんか?
私たちの年代とは別の感性で「レトロ」が成立している可能性もありますよね。
40代の自分がのっぺりと時代を平坦に捉えすぎてるだけなのか?

でもでも、いまの10代20代とかでも40代の私が好きな旧車とか好んで乗ってる人達もいるようなので、「レトロ趣味」を成立させるのはデザイン要素7割、時間要素(自分がその時代を生きているかという意味で)3割ってとこでしょうか?
いや、基本、デザイン要素10割なのかもしれませんが、それは生まれた年代によって割合は異なってくるのでしょう。自分がその時代を生きていたかはあまり関係ないですね。
そして現在レトロが指すイメージは私の勝手な解釈ですが、明治〜大正〜昭和40年代くらいまでの商品に適用されるもののような気がします。
今の中学生が13年前の商品を懐かしむことはあっても「レトロ」だとは思わないと思うのですがどうなんでしょうね?
実際「デザイン・機能」の変化は、1970〜1983年の変化に比べたら1998〜2011年の変化は微々たるものだと思うのです。プリウスも1997年発売ですし。
あー逆にプリウスの初期型なんて今の中学生は古く感じるのかな?
できて間もないテクノロジーだから経年による技術の差が解りやすそう。
初期型電池がでかいとか走行距離短いとか。

「それはあんたの主観だ」といわれればそうなのですが・・・。
でもいまの中学生は最近10年間に作られた車と1970〜1983年に作られた車を資料で確認することが出来ますから、見たらやはり1970年前半の車は「旧いな!」と思うはずです。
現代の車の基調デザインではないなと。
それこそ「三丁目の夕日」なんかで昭和レトロの概念を提示されちゃってるわけだから、多分1998年の車をレトロだとは思えないはずです。懐かしいとは思っても。
それに時間って物質が変動、変化していく過程ですよね?
「懐かしいっ!」て思うには「経時感」が必要だと思うのですが、それこそ車の形に変化が無いと経時感も少なく当然懐かしさも私達の世代ほどは感じないのではないか?と思うのです。「形」に限っての話ですよ。自分の成長と共に過ごした車や物には、形に関係なく経時感を感じると思います。
別に、レトロを楽しめなくて可哀想!とかいってるわけではないですけど。
現代にはない素敵な車を求めようと思えば過去に遡ればいいのですから。
私だって「ミゼットはレトロだな、いいな」と思ってますが、実際道路走ってるとこなんて見たことないですからね。


と、ここまで書いて、「レトロって何?」ということでウィキペディアで調べてみる・・・

・・・レトロ(Retro)とはretrospective(回顧)の略語。懐古趣味のこと。「徒に古い物を珍しがり懐かしむだけの単なるデカダンス」とも述べられる。

と、いうことです。

いたずらに懐古趣味ですか・・・退廃的ですか。ひー!するとデザインはあまり関係ないかな?
デザインがいいと言うよりは、普段目にしないものをみて珍しがってるだけなのか?
いや・・・でも昔のデザインって「線」の持つ力あるよな?建築物とかでもそうだよなー。

懐古趣味だったら時間だけ経過していれば今の中学生にもレトロ趣味は成り立ちそうです。
しかし今の中学生みんなが1990年後半、自分の生まれた頃を趣味として「懐古」するのでしょうか?
その「懐古」した時代に存在する製品や町並み・風俗が、現在と見た目・機能の点で大差なければもっと別の時代に興味を持ち「懐古」する可能性もありますよね。
私は大正〜昭和30年代に興味を持ってますけど、生まれてないですし。

もしかしたら単に懐古趣味というのではなく、とりあえず暫定的ではあるけれど、どの世代も共有できる「普遍的なレトロ感」というものが日本にはありそうな感じですよね。
だったらレトロ=デザインも成り立つと思うのですが。

でもでもでもでもレトロは確かに無い物ねだりなのかもしれませんね。
(何を言いたいのかよくわかんなくなってきた・・・)
例えばミゼットがその辺何台も走ってたら多分、飽きるはず。
映像では正直見飽きた。実物には反応するけど。

キャトルが何台も走ってたら、うーん、飽きそう・・・。

・・・でも可愛いかな^^

そういう話でした。



マンガと音楽も似たような話かな?





今や電話は一家に一台の時代です。


















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ナウシカは、ラクダの股引はいている?

ナウシカ面白かった!

最近細野さんのイメージソング聴いて、見たくなったところだったから「おっ、今日ナウシカじゃん!」って。

はじめてナウシカ見たとき、パンツはいてないっ!と思ったの私だけか・・・^^;

ナウシカはある意味野生児なんで、ネイチャーな感じなんで、はいてない設定なのかな?と真面目に思ってました。


今の私の見解はというと、

素足の方がキャラデザインとして自然だが、メーベで飛び回っちゃうとパンツ見えて困る

だからといってズボン履かせると軽快感もセクシーさも無くなる

で、苦肉の策で肌色の股引みたいの履かせた・・・

と、いうのが私の好意的な捉え方です

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受動意識仮説

またyoutube^^;


人間の行動は無意識が決定してて意識は後付けだ、という話?



こういう講義はおもしろいです

おれドーパミンが出過ぎてんのかな?

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いかん、動画サイトばかり見てる・・・^^;

面白いんだもの
昨日今日と休みだがず〜っとyoutubeとニコ動見てました
仕事以外は引きこもりですな・・・^0^;

マイケルシャーマー「迷信を生む2つのしくみ」

これは分りやすくてよい

大昔、草原でカサカサと音がしたら「猛獣が私を狙ってるのかも」と考えて用心しないと人間は生きていけないわけです。
「風の音だよ」で済ませてたらいつか猛獣に食われてしまうわけです。

だから現象に「意図」を見いだそうとする癖が人間にはついちゃったんでしょうね。




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坂口恭平さんいいなぁ


長いですけど、面白いですよ♪






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今際の際をニコ生で・・・

なんか、2日続けてこんな内容で・・・

私、40過ぎですが結婚してません。

このまま独身で、もし山の中で隠遁生活なんかはじめた日には臨終を看取ってくれるひともいないと。

そんなときにニコ生。

自分の死に際を生放送したら誰かに看取られている気分で死ねるのでは・・・



・・・なんて、寂しい事を考えてしまいましたが、死に際にそんな余裕ないだろうな〜

でも実際実行したら「早く死ね!」とかコメントするやつが絶対いるだろうな^^;
想像に難くない。


でも、もし眠るように死んでいけるのなら、誰かに手伝ってもらって自分の死を生放送してみたいな。

病室や自宅の寝室など狭い空間で死にたくないんですよね。

でも狭い室内でも生放送しながら死ねば、広がりのある空間を感じながら死ねそうな気もする。

まあできるだけ元気に長生きしたいですね〜私は。



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ベーシックインカムやってくれ


昨夜、この動画音声聴きながら横になってたら寝てしまい、今朝3時半に起きたので再度視聴。


この議論を聴いてる限りベーシックインカムっていいと思うんですけど。

ものすごく食料や工業製品の生産能力あがってるのになんでこんなに長時間労働しないといけないのか?ていうのは普通に考える疑問ではないかなと。
別に怠けていたいということではなく、機械でできることは機械でやって、余った労働力は新たに必要となってきている別の需要のため割いていくべきだと思います。

労働は尊いけど、端から見ると労働っぽいけど、実際やってもやらなくても誰も困らないような作業のために体力消耗してる人達たくさんいますもんね。

俺だって汗をかきかき壁紙貼ってますが、人間の生活に絶対必要な仕事でもないと思いますし。

クロス職人いないならいないで、皆さんそれぞれペンキ塗ったり壁紙買ってきて自分で張るだろうし、大工が本物の木の板を壁に初めから貼ってればそれで居住者は十分満足しそうだし。

自分で施工する時間がとれなかったり面倒くさかったり、コストが見合わなかったりするから、現状では必要とされる仕事なんでしょうけどね。

逆に社会に必要な仕事を無償でやってるボランティアの方達も大勢いる・・・

この動画で議論されているように、年金とか生活保護だとかの社会保障費を支給したり管理したりするために多額の人件費払ったり、雇用を与えるためだけの公共事業にお金突っ込むくらいなら、初めから小額でいいからみんなに均等に配ったほうがいいと思うなー



しかしホリエモンってテレビで見るイメージとはずいぶんと違いますね。





追記:動画貼るの忘れてた^^;
さあ仕事いくべ〜


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「個性」の有る無し

何日か前に「昔のF1レーサーは個性の強い人が多くて面白かった」みたいな記事を書きましたが、なぜ今のレーサーは個性的に感じないのだろうか?と考えてみました。

考えたというか、仕事中に思いついたんですけども。

多分、昔はまだまだ「手探り」する余地が残ってたからではないでしょうか?

「俺様のやり方、走り方が正解なんだよ!」みたいな

三者三様。

現在は、ベストタイムをたたき出すにはこれしか無い!みたいなセッティングや走法のパターンが煮詰められてきてるから、ドライバー本人の創意工夫を入れる余地が少なくなってるのではないでしょうかね?
だから無個性に見えてしまう。


個性的な人っていますけど、あれも生まれつき個性的なわけではなくて、本人を個性的なキャラに導く環境があってのことだろうから。

今の20代くらいの方々だって今なりに楽しめているのでしょうが、ネットでこれだけ情報の共有が出来るようになると、「昔は良かったんだな〜・・・」とか過去を羨む若者も出てくるのではないでしょうか?

まあ今だっていろいろ十分面白いとおもいますけどね!



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断捨離してみて気付いたこと

昨夜、床下野良猫の捕獲に成功した!!!^^^^^^^^^^^^

「溜飲が下がる」とはこういう時使う言葉だな!うぃ〜

またyoutubeに動画投稿しよう。




キャトルは多分、貨物車。
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この量で2回ゴミ処理場に・・・



床の間に飾ってあった、多分、木の「コブ」
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じいちゃんが樵(きこり)やってたもんで、こんなのがいくつかある




多分祖父による挽き跡だと思うので写真とっとこ
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置いといてもちょっと・・・なので捨てます





これも床の間に置いてあった^^;
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今時珍しいでしょ、こんなのが鎮座してる床の間も
田舎のじいちゃんばあちゃん家とかに置いてありそうですよね

こういうのも床の間に置いてあるとなにか「宿って」そうで捨てるとバチ当たりそうな気がするんですよね〜



でもこいつは単なる貯金箱でして・・・
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硬貨投入口が備わってます^^

これも置いといてもしんどいので捨てちゃいました。


あと、日本神話に出てきそうな神様の絵が描かれた掛け軸(お土産品みたいなやつ)と、神社の護符も捨てちゃいました。わー罰当たり!^^;


しかし床の間パワーって結構すごいですね
この恵比寿さん?の貯金箱も床の間に置いてなかったら、ほんとただの土産品みたいな感じ^^

掛け軸に描かれてた神様が子供心に結構ブキミだったんでなおさら床の間に対する畏怖の念が強かったんでしょうけど。

でも、なんのかんの言いつつ捨てる前にそれらの品々に手を合わせてしまった私(笑)

手を合わせなくったって絶対バチなんて当たらないんですけどね!
床の間から移動させてみてほんと思いましたもん、掛け軸にしたって置物にしたって、ほんとだたの商品ですがなと。


で、私「神様なんていない」と考える人間なんで、手を合わせたことに対する言い訳を考えました^^;


俺は別に神様に手を合わせたんじゃない。
これまでに、これらの品々から何かしらの恩恵を受けているかもしれない
そのことに対する「物」そのものに対するお礼である・・・と。

もともと床の間に無ければ無いで全然構わなかった品物だけど、それらを見たりすることで何かを考えるきっかけになったかもしれない。
この床の間を見て子供心に怖い神様みたいなものがいると信じたから、道端のお地蔵さんの前で立ち止まり手を合わせていたのかもしれない。
お地蔵さんで立ち止まらずにそのまま歩いてたらタイミング悪くて交通事故にあってたかもしれない
^^;

まあ、そんな考え方です。
もしかしたらそうだったかもしれないじゃないですか。
だから一応品々に礼を言っときましょうと。

そういう「床の間効果」があったかどうか知らんけど、実際いままで生き延びてるわけですからね。


だから逆に考えれば、神社に立ち寄ったが故に、お地蔵さんに手を合わせていたがゆえにタイミング悪く交通事故にあって死んでしまうことも起こりえるということですよね。


一時的にひどい目にあっても、後で立ち直れれば、これまでの出来事を肯定的に捉え直すこともできますが・・・


だから私的にはあまり何かを強く信じていたりしたくはないですね〜

自分なりに上手く生きていけるようにそこそこ努力して、自分の力の及ばない出来事に関しては、「仕方ない」つってあきらめるほかないと思います。

でも、これだけ神社とかがいっぱいある環境に住んでるんだから信心深いほうが社会的には上手く生きていけるかもな〜



まあ、なんでもいいや・・・^^;









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霊が見える子供


私と同じ現場で作業していた職人さんの話。



その職人さんの子供が3〜4歳のころ、夜、車に乗せていっしょに走っていた際、交差点に差し掛かったところで


「あの信号のところでおじさんが『痛い痛い』っていってる」


と、子供が言い出したそうなんですが、その交差点には誰もいなかったそうなんです。

だもんで「ゾッとしました!」と。



お子さんは現在10歳くらいになってまして、そういうことはまったく言わなくなったそうなんですけども。

「見えたりすることあるんですかねー、何だったんですかねー?」

ということだったので、私なりに考えました。


・・・多分、子供がまだ物心つかないとき、親といっしょにテレビでドラマや映画を観てるときに交差点でおじさんが事故かなにかに巻き込まれ苦しんでるようなシーンを見てしまった。

その印象的な場面は幼い子供の頭にも記憶されちゃいましたと。

で、成長し、お話もできるようになったころ、お父さんといっしょにドライブ。

そして、かつて幼い頃テレビでみたのと同じような交差点にさしかかったとき、ドラマだか映画だかで見たおじさんが苦しんでいる場面を思い出してしまう。

実際に目の前にある交差点に苦しんでるおじさんはいないんだけど、そこは幼い子供。

頭に思い浮かんだ印象的な映像を素直に言葉に出してしまった・・・


ということではないのかと。


幼児にとって印象的な強いイメージは現実と区別をつけにくいのではと・・・


おじさんが苦しんでる映像の記憶なんて、幼い子供心には不安を呼び起こすものだと思うので、親に話して安心したかったのではないでしょうか?

自分的にはけっこう合点のいく理屈を考えついたと思うんですがどうでしょ?

その職人さんにそのように話したら「そうかもしれませんねー」とは言ってましたが・・・






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NHKの「ロボット革命」見て思ったこと


ホンダのアシモ、とてもスゴいと思いました。

ロボットの制御技術開発なんてのはもう最先端だなーって思った。



でも、アシモを原発災害復旧で使用するのに、なぜ「2足歩行」にこだわるのか???

ゆっくり開発しててもいいのなら2足歩行で開発してても良いと思うんだけど、もう実際にアシモを稼働させなければならない「現場」があるのに・・・

2足で倒れやすいならわざわざ時間かけて制御技術なんて考えないで3足でも4足でもいいんじゃないだろうか?

4足でツッタカツッタカ歩かせればいいじゃん!

4足のほうが踏ん張れるじゃん!

4足で重くなるなら、プラスの2足は補助脚として軽量なものにするとか。

基本、荷重はメインの2足が受け持って、倒れそうになった時や両手で障害物を押すときなど補助脚がしっかりと踏ん張る、みたいな。

両手で作業する時なんてどう考えたって2足は無理がありそう。

人間のように左右の踏ん張りと前後の踏ん張りを2足で強力に行うこともできるようになるんだろうけど、悠長なことしてられないでしょう?


ホンダの技術者が「夢はみない」「現場で使えるものを」と言ってたけど、アメリカの国防総省がロボティクスコンテストとかやってるし、韓国のロボットも進んでますから、やっぱ少し「夢」見てんじゃないかな〜・・・


・・・とか、無知な私は思ったんですけど、どうなんだろ?




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代替案を提示する

前々前回、二足歩行ロボットによる災害復旧支援計画に苦言を呈した私ですが・・・

口ばかりではありません!


これでどうでしょうか?



ホンダでは、アシモを2足歩行だけでなく四つん這いでも動けるようにする、などと言ってましたが、それが大胆な発想の転換なのでしょうか?

「二足歩行にはこだわらない、実を取る!」ということなんでしょうけど、天井高が低い場所で作業しなければならない場合、四つん這いでは動けるものの手が塞がってしまうので何も出来ない。

2足歩行一本やりではないが、まだ「人間」の動きを基準にして物事を考えようとしている節がある・・・

「アニメの世界を現実のものに!」みたいな思考が頭にこびりついてしまっているのではなかろうか???


私がデザインした「ASIMOTEMO」は腕が長短2本ずつで4本。

普段は2足歩行だが四つん這いも可能。そして残りの腕で作業を行う。

その勇姿はまさに「ケンタウロス」!


直立2足歩行時において足場が悪くなった場合には、長い腕を利用し、言わば「ゴリラ」のように「4足歩行」をおこなう。

安定した姿勢で確実に業務を遂行するためなら「退化」も厭わない・・・とでも言ったところだろうか(笑)

二足歩行で無理をすることは「進化のはき違え」と言っても言い過ぎではないだろう。


親指が2本あるのは、対象物をしっかりとホールドするためである


で、ウインチも付いてますと・・・




眠くなって来た

寝よ・・・

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自動車のリサイクル



自動車はスクラップにして素材別に分別するよりは修理して乗ったほうがエコだと思うんですがどうなんだろう?

いくらリサイクル率99%だとかいっても、製造にかかったエネルギーはリサイクルできないし、分別した金属を溶解して製品にするためにまたエネルギー使うし、また新しくクルマつくるのにエネルギーが・・・

プ◯ウスとか本当にエコカーなんですかね?

発売されたときはワクワクしましたけど。いままでクルマに付いてなかったものがたくさん付いてますもんね。

燃費のいいガソリン車を大切に乗れるようになればいいんだろうけど、そんなことしてたら商売あがったりなんでしょう多分。

電気自動車もモーターで走っているようですが、台数増えちゃったら電気自動車ではなく「原子力自動車」になっちゃいそうだし。原子力エンジンで走るエコカー。

それこそ鉄腕アトムがCMに出てきそうじゃないか!


技術はスゴいんだろうけど、今見るとなんか少し嘘くさい感じが・・・


商売ネタとして次は何が出て来るのだろう?

乗ってるフリして「エアカー」はどうでしょう?

で、だめなら、逆にリアルな車ということで「リアカー」




よし、今日もブログ更新した。




08

15

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疑問

たいして書くことも無いが、一応毎日更新しようと思ってるのでしょうもないことでもなんでも書く



小学生のころ感じた疑問のことを・・・



・・・昔、ご飯を食べ残したりすると親に、

「アフリカにはご飯も食べられない難民の人達もいるんだから残さず食べなさい!」

みたいなことを決まって言われてました。

言われた方結構いるんじゃないですかね^^

で、小学校の掲示板なんかにも「世界のニュース」みたいな感じで、飢えてやせ細った難民の子供達の写真が載った記事が貼られていたりしました。


そこで小学生の私が抱いた疑問なんですが、


「なんで自分は日本にいて平和に暮らしてる側にいて、難民の子供ではなかったんだろう?」


・・・というもの。


これって馬鹿馬鹿しい疑問のような気もするんですが、こういう疑問を抱いていたということを思い出したのが3年前くらいでして。

これはどういう疑問なんだろうか?

私が私のこと考えてるんだからそりゃ当然なんですけど、なんかモヤッとしてるんです。

自我とか自意識に対する疑問なんだろうけど。

私が「日本人」だとか「食べ物に不自由していない」とかいろんな属性をもって、ここにいる、そしてその立場でものを考えている・・・


ん?、これってもしかして自分より不幸なひとを単に見下してるだけか???

「おれ飢えてなくてよかった〜」みたいな。

いや、そうではないよな。



まあ不思議でもなんでもないか・・・

自分が世界のこと考えてるときは自分が中心になっちゃうから、その辺を不思議に感じたんだろうな。


日本だけでも1億2000万の「自我」があるってなんかすごいな^^;



明日から仕事じゃ。




微笑ましい動画だと思いますけどヘビ苦手なかた注意です^^;






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29

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今朝、何気なく思ったこと

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「死」について考えるのは楽しい♪

今日仕事中に、なーんとなくですが「死」について理解が少し深まったような気がしないでもなかったのでちょっと書き留めておこう・・・

別に大したことではないけど。





・・・死んだら意識がなくなってしまうが、生きてる人間も毎日意識を失っている・・・

寝る時です。養老孟司さんがよく書いたり話したりしますけど。

でも同じ意識が無くなるといっても、就寝前に「このまま目覚めなかったらどうしよう」などと心配しながら寝る人はそういないと思うので恐怖は感じません。

「明日も再び目覚めて1日の生活を送るのだ」という前提があるから問題なく「意識を失える」、眠れる。


私の知り合いが就寝中に一酸化炭素中毒で亡くなりましたが、もし死ぬときに苦痛がなかったとすれば(スゴくあるかもしれませんが)何も心配せず普通に睡眠に入ったわけだから、これこそ本当の「永眠」でしょう。


で、「生きてる」ということはどういうことかといえば「記憶がある」ということですよね。

私で言えば、過去の記憶があるからこそ42年間生きてる(精神年齢は低い)と、自分で信じていられるし人にもそう言える。

一晩寝て、一時的に意識を失っていたとしても、目覚めれば「昨日と同じ自分である」となんの疑問も持たずにそう信じていられるから私は生きてると思っていられる。
「私という人間の命が継続している」と思っていられる。

これも養老孟司さんからの引用ですが。


アニメ「甲殻機動隊」でも、素子と融合するまえの人形使いが「人は記憶によって人たりうる・・・」と言ってましたが本当にそうだよなーと。


だから、人の記憶を書き替える技術があると仮定します。

で、例えば、私、歩き茄子が(歩き茄子・・・)夜寝ている最中に、誰かが私の記憶を消し、他人の記憶に書き替えたとします。


で、翌日目覚めます。

私の肉体はあくびをしながら起き上がりますが、昨日までの記憶の私は完全に死んでるわけです。



歩き茄子、マジで死んでしまったのと同じ^^

でも死んだと言う悲しい認識は一度もしていない

よその誰かが朝目覚めただけ。



逆に、作り物の記憶に書き替えられた歩き茄子の肉体をもった人間は「新しくこの世に生を受けた」という認識もないわけです。

「私は昔から居ましたよ〜」と言うでしょう


この話は「作り話」のようですが、そうとも言えないぞ、と・・・

将来書き替える技術ができる!という話ではなく、「私」は昨日の私と本当に同じなのだろうか?という話です。


やたらと強く「昨日と同じである」と考え過ぎているのではなかろうか?


みんなが「昨日と同じだ」と考えていないと社会は多分破綻してしまうのでマズいとは思いますが・・・

だから逆に言えば「自分は、個人は社会によって規定されている」とも言えなくもないわけです。


だから・・・本当は、この世界はもっと混沌としているのではないかなーと思ったんです。

1日ごとに劇的に変化していないとしても、絶対昨日とすべてが同じなんてことはありえないわけです。


「寝るも死ぬも似たようなもんだろ!」と言われたところで「いや理屈ではそうかもしれないけど、やっぱ寝るのと死ぬのは違いますよ〜^^;」って思っていたんですが、案外そうでもないかもなーと思いはじめたんです。

「だから命なんて軽いもんだ」とか言う理屈ではありませんよ!^^;


なんか、どうまとめればいいか解りませんが、死の不安から逃れるには、自分の死を「超大事件!超特別!」と考え、死を恐怖する心から逃れるためには「生きてる」とはどういうことかを先に考えてみるべきかもしれません。



現在の、とりあえず豊かな生活があるのは過去の人達のおかげです。

「現在」は、今存在している人間だけで成り立っているわけではない。

そういう意味では「故人」も生きている、と言えるのではないでしょうか。

「意識がある」という生き方ではないですけど。

「故人は存在していない」と言われれば、それは違うと思います。

日常的に目に見える形としては存在していませんが(霊魂とか私は居ないと思ってます)当たり前の話ですがなんらかの形となって残ってはいます。

私はできるだけ、より具体的に存在していたいと思うので「土葬」を望むのですが。
ボイラーで燃やされて灰になるのはあまりに無機的な感じがしてヤですねー。


で、で、だから、だからですね〜(どうまとめようか^^;)


さっき、寝ている間に記憶を書き替えられたら、元の私は死んだも同然、と書きましたが、そういうのは「死」の範疇に入らないのではないか?ということです。


「私」と「他人」にどれだけの違いがあるんだろうかという話です。

私が死んでも私以外の人間はたくさん生きているわけです。

私は土葬がいいと書きましたが、結局、自分が死んでも何らかの形となって社会に存在していたい、という欲求があるわけです。

よく物語やマンガなどで、臨終間近の職人が弟子や子供に「俺の技術はお前の中で生きている、だから俺は心置きなく死ねる」みたいに語りかけながら死んでいくような話がありますが、そういうことですよね。

子供や孫が産まれて喜ぶのはそういった面も少なからず含んでいるんじゃないですかねー


・・・なんか自分のなかでは大きめの発見をしたつもりだったが、地味な話になってきたなー^^;


眠いから寝よ。
































       

プロフィール

歩き茄子

Author:歩き茄子
主に2輪駆動バイクの製作記。
あと雑記。

 ポチッとな!

ARUKINASU200AWD

たくさんのコメントや宣伝ありがとう^^

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