12

19

コメント

死ぬのは怖くない?

私は怖いんですけど、死ぬのがコワイとはどういうことか?

痛いのが嫌!

人生が終わってしまう事が残念!
「やり残した事いっぱいあるでよ〜(泣)」みたいな。

この2つを感じちゃうから死ぬのが怖いんでしょう、多分。


「おやすみなさーい」といって寝てる間に苦痛なく死んじゃえば、死の恐怖もゼロ、というか自分が死んだ事さえ多分わからないだろう。

安楽死できる薬があったとして、それを強制的に飲まされたとしたらどれくらい怖いのだろうか?

具体的にはゆっくり気持ち良く睡眠に入るように死ねると仮定する・・・

苦痛がないとしても「今から死ぬ!」とわかってるんだからそれは当然恐怖だろう。

でも同じ殺されるでも、痛めつけられ苦痛を伴いながら死を覚悟させられるよりは、安楽死の薬を強制的に飲まされて殺されるほうがまだマシだろう・・・


死を迎える恐怖も、痛みも与える事もなく人間を殺せる手段があったとする。

その方法で人を殺せば罪にはならないのか?

いや当然罪でしょう!

遺族に悲しみを与えたり経済的負担を与える。社会的にも。


天涯孤独の人間を死の恐怖をあたえることなく殺したとする。

それは罪なのか?

これも当然罪ですわねー

でも、この場合、殺人が発覚せず、殺した本人が平気であれば誰も悲しまない。

判っていれば、その殺人に対して「犯罪だ!」と騒ぎ立てはするだろうが、わからなければ何もなかったと同じように平穏な日常は維持される・・・



こういう「誰も悲しまない殺人」が行われないようにするために考え出されたのが「宗教」だったり「天国と地獄」という物語なんだろう・・・と、中学生の頃考えてました^^;








スポンサーサイト



01

01

コメント

あけましておめでとう、と言いたいところですが・・・

正確には解らないが、31日か1日に親戚が亡くなった。

遺体はまだ自宅にあり、さっき顔を見てきたのだが、お風呂で亡くなったせいか顔がまだ赤らんでいて生きてる時と変わらないようだった。

冷えた体で急に熱いお風呂に入ったのが原因ではないか?と。
お酒も入っていたようだし。


この亡くなった親戚の母親も元日に亡くなっている。


こういうことがあると、何も考えずに「呼ばれたんだわ」みたいに言う人がいるのだが、この「呼ばれた」をどういう意味でとらえているのだろうか?

母親が寂しいから息子を死に追いやるなんてそんなひどい親いるかって話で。


私は単なる偶然だと考えますが、人間には無意識があるので、体が弱っていた場合「母親と同じ日に死にたい」という無意識的な願望から無意識的にそうなるよう行動してしまう、ということは考えられるような気がします。




しかし、遺族は近親者が亡くなった早々に、葬式だなんだと、死者とゆっくり向き合う事もできず大忙しなわけです。


なんだか、寺のため、葬祭場のため、坊主のために遺族がバタバタと働いているように見えてならない。


もっと、ゆっくりと死者と向き合える式のあり方はないもんですかね!


多いに疑問です!



01

15

コメント

溶けて生きているか溶けないで生きているか

1月は思ったほど仕事がないな

今月まだ5日しか働いてないぞ!
明日仕事でそのあとまた4連休だわ^^;

まあ2WDバイクの製作を進める事ができるので良いのだけど。

2月は確実に忙しいので来月稼ぎましょ。



最近思いついたことを書いとこう。


仏教とかで「すべては空である」とか言いますけど、確かに外界から隔絶した「私」なんて成り立たないので、世の中に存在するものはすべてつながってて混沌とした状態にあるといってもいいんでしょう。

養老孟司さんがたとえでよく使いますが、宇宙空間で死なないようにするためには、宇宙服を着て内部に空気を入れておき、適正な温度に保っておかないと人間は死んでしまうわけです。

地球上にいると人間である私が空間にぽつんとあるように見えますが、空気も「私」太陽も「私」酸素を出す木も「私」二酸化炭素も「私」お米も「私」なわけです。

人間と環境は「込み」であると。



で、それとは別に私が考えたのは、生き物って物質として柔らかいわけです。

柔らかいから溶けやすい。死んだあと循環しやすいよな、と。

石なんかはなかなか崩れないし循環しませんよね。

可哀想なたとえですけど、元気な子猫ちゃんであっても、片手できゅっと締めちゃったら簡単に死んでしまうわけです。

蚊や蠅なんてぷちっとつぶせば死んでしまう。

普段の生活では、視覚的にはっきりとした輪郭があり、質量もあるので確固とした「個」として存在しているようにみえますが、相対的にみれば人間も空気とか水みたいな物なんだろうなーと。

だから、関係性としての「空」という捉え方と、単純に生物の物質としての混ざりやすさとしての「空」という捉え方もあるなーと思ったわけです。

でもどっちも似たような話しかぁ・・・

だから循環したいならやっぱり死んだら「土葬」がいいですよね!

水葬とか鳥葬はなんかキツいから


土葬は可能かどうか今度市役所に電話してみよう!




01

18

コメント

火葬、土葬、水葬、鳥葬


死者の葬り方、という言い方で良いのか解らないのですけど。


これらの葬り方についてうんちく語ろうなどというわけではなく、

自分だったらどれをチョイスしようかなー?と・・・^^;


お釈迦さんは火葬だったらしいです。

「荼毘に付す」は仏教においての火葬のことらしい。


前にも書きましたが、私は土葬がいいなと。

果物の木の下あたりに埋めてもらって、私が養分となって果実が実り、鳥がつんつんつついてエサにでもなれば「死んでも役に立ってるぞ!」みたいな^^

でも単純に遺体処理の迅速性、衛生面で考えれば火葬ですよねー




お釈迦様はなぜ火葬だったのか・・・?


本人が火葬を選択した、というより、そのときは火葬がいちばん都合よかった、というだけの話だったのかも。

仏教は多分「人間死んだら終り」という考え方だから「あとは好きにして!」という感じだったのではなかろうか?

お釈迦様の遺骨を欲しいひとがたくさんいたのかも?


確かに死んだら終りだけど、実際、土葬にすれば肥料にはなるので、そこは個人の選択だと思うんですよね。

私が住んでるあたりは田舎なので、土葬を選択できる余地はある。

都市部では難しいですよね、インターネットで墓参りするぐらいだから。


私が土葬がいいとか言ったところで、もう死んでる私は何されようと知ったこっちゃないんですけど、まあ生きてるときに考える理想です。



鳥葬や水葬は、直接的に遺体が動物に突かれたりするので、個人的にはそれらを選択しようとは思わないんですけど(日本では無理だろうし)、カワイイ鳥や魚に食べられて自然に帰れるのならありかなと・・・^^:


ものすごい数のスズメが飛んできて私の遺体に群がり、チュンチュンチュンチュンッ♪と一気に細かく分解してくれるなら鳥葬でも良い気がする・・・


魚だったらなんだろ?クマノミとか熱帯魚系のカワイイやつで・・・^^;





01

23

コメント

面白い!

何日か前に「面白いですよ♪」といってブログにはった養老孟司先生の講演動画・・・


なにげにクリックして再生したら、初めて見る動画でした^^;

いやーしかしこっちもかなり良いっ!!!^^^^^^^^^




私がお薦めしたつもりだったのは2011年のこの動画

細切れですが



自然から離れて暮らしていると、人との関わりという側面でしか幸不幸を語れなくなる、という話はほんと納得です!

「自分の死はない」という終盤でのお話は私も考えていました。

まあこれは「即死」の場合なんでしょうけど。

じわじわと死んでいったら、自分の死も悲しく感じるわけだから「自分の死」はあるでしょう・・・



・・・・と、文字を打ってる最中に思いついた事が。



例えば、ものすごい激痛が1分くらい続いて耐えられずに気を失ってしまったとします。

このとき、本人は激痛に耐えている間「これはただごとではない、死ぬかも!」と思いながらもがいてると思います。

死の可能性を予測しながら。


しかし運良く意識はもどり生きていたとします。予測は外れたわけです。

ああ生きてて良かったと。


そうでなく、激痛の後死んでしまった場合「死ぬかも!」という予測は当たったわけですが、本当に死んだかどうかは自身で確認しようがないわけです。

だからやはり「自分の死」はないのかな?とも思いますけど・・・・


けどけど、ですよ!?


どう考えても絶望的な状況でゆっくりと死を覚悟しなければいけない場合ってあると思うのです・・・

「これは確実に命を失うであろう」と確信できる状況というものが・・・

具体的には書きたくないですが。

やはりその場合は「自分の死」はあるのかもしれず、その状況にたいしては、もう、覚悟を決めてのぞむしかないのでしょう。

でも、そういう状況から奇跡的に生還したときってホントに嬉しいだろうな。



こう考えると「自分の死」ってありそうなんですけど、どうなんでしょう???




養老先生教えて卓袱台





続きを読む

01

26

コメント

死に伴う苦痛ってどれくらいなんだろう?

がどうのこうのと素人考えでいろいろ書いてるんですけど。

」という言葉に捉えられすぎてはしまいか・・・?とも思ったりして。


時間と言葉で、自然界の出来事を細切れにして、その細切れの部分をとりだして、これが「」だ!・・・と言ってるわけですよね、超極端に言えば。

人間には平均寿命があるので、基本そのスパンで早にだ長生きだと判断する。

人間は何かのきっかけで意識不明となり、そのまま目覚めなかったり、身体の活動が停止したりしますが、寝たからといって意識不明になったとは言わない。
「彼は目覚めるであろう」という確信があるから。

でも8時間たっても目覚めず、12時間たっても目覚めない、例えば寝室から出て来ないとなると、近くにいる人間は不安になってきて、様子を見に行き声をかける。
それでも起きなかったら、体を揺さぶってみたりして目覚めさせようとする。

そこで目覚めれば「生きてた」、目覚めなければんでた、または意識不明ということになります。

んでしまえば、「自分の死はない」という死に方で死んだ事になります。死んだという自覚が無い。

本人が自分の死を予測することなく死んだ、ということになります。

これは遺族にとっては悲劇ですが、苦痛がなかったとすれば、死んだ本人にとってはそれこそ、痛くも痒くも悲しくもないわけですから、何事も起こってないわけです。



・・・急に話しが変わりますが、ここでまた考えたんですけど、死に伴う苦痛ってどのくらいの苦痛なんだろう?


痛さのレベルが10段階あったとしたら、レベル10が一番辛いと思ってしまうけど、問題は継続時間ですよね!

例えば、激痛のレベル10が0.5秒続いて意識を失うのと、レベル5の痛みに24時間耐えなければならないのと、どちらが嫌か?といえば私は後者です。

他に苦痛の要因としては「この痛みは死に繋がるものだ」という認識の有無によっても苦痛のレベルは大きく違ってくるでしょう。

「弁慶の泣き所」、向こう脛でしたっけ、あそこを打ってもか〜なり痛いですが、それで死ぬとは思わないから痛みはあるけど恐怖感はない。

私が小学生の時、近所の製材所の材木の上を走り回ってて、そのままジャンプして小さな小屋のひさしに飛びついたら、ひさしが崩れて背中から地面に落ちてしまったことがあるんですけど、痛みもあるんですが呼吸ができないんです!

呼吸ができないのは苦しいし、死へと繋がるわけですから恐怖でした。

ほどなくして呼吸はできるようになったんですが、近くで「救急車呼んだほうがいいかなぁ?」とか冷静に話してる友達に不信感を抱いたもんですが・・・^^;

あのとき息ができなくて苦しいままフッと意識を失い、そのまま死んでたら私は死んだということになってるワケですが・・・


こう考えてみると、なんだな〜・・・やっぱり「自分にとっての死」って、養老孟司さんの言うようにほとんど無いのかなって気がしてきたな!


私がひさしから落ちて感じた痛みと苦しみは、そのあと生きていようが死んでいようが同じな訳です!


死んでたとしたら、残った遺族は「苦しかったんだろうねー・・・」と思いながら私の亡がらに手を合わせる。

生きてたら「何バカな事やってんの!!!」と叱られる^^;

だから全部とは言えないが、「死」というのは遺族にとっての、親しい人にとっての出来事であって、死んだ本人はそれこそ知る由もないわけです。





・・・で、「苦痛」の要因ってこの3つじゃないでしょうか?

1 痛みの強度

2 継続時間

3 死へ繋がるという認識が伴う、または今までと同じ容姿ではいられないであろう、日常生活を送れないであろうという恐怖。視覚的な身体ダメージ。


ここでは死について考えてるわけだから、問題になるのは3ですよね。

この「3」の恐怖を感じないまま死んだとしたら、この場合「自分の死は無い」といってもいいのだと思います。

いや、恐怖があったとしても「死」への移行がほんの短時間であれば、その後に生死で翻弄されるのは親しい人間であり、死んだ本人が少し死の不安を感じてたとしても、「死のリアリティ」を正面で受け止めながら恐怖に怯え死んだわけではないと思います。
その恐怖は、私がひさしから落っこちて苦しんだのと同じくらいのものでしょう。



そう考えると「2」も要因としては大きい。
痛みが長引けば死への恐怖が産まれてしまいます。
自分自身のダメージなど見なければよかったものも見てしまいます。
「死」へまでの道のりが苦しいものになってしまう。


・・・誤解を受けそうですが、これは直近の死が前提としての話で、本人が死を自覚しない死とはどういうものかを考えているだけであって、体が不自由になっただけで生きる事の価値が下がってしまうなどという意味ではありません。



だから、末期ガンと告知されて病院で痛みと戦いながら死ぬのは辛いだろうな・・・といまさらながらに考えてしまったが・・・。
でも辛いのはガンと告知されたときであって、あとは覚悟の上での闘病となるわけだから恐怖というよりはそれこそ闘いになるんだろうな・・・


だから、養老孟司さんの言うように「自分の死はない」という死もあるけど、死と真正面に向き合いながら死んでいかなければならない場合もやっぱりあるよなと。

養老孟司さんのいう「自分の死は無い」という意味は、純粋に「自分で自分の死を認識する事はできない」という意味なのかもしれないですけど。



で、こんなこと考えてどういう意味があるの?ということなんですが・・・

他人の死について考える場合役にたつかなと。

考えることが面白い。

他人の死を極端に不幸な出来事にせずにすむ。

自分が死に直面した時少し冷静になれるかな?と・・・


「『死』なんて恐るるに足らず!」とは言えませんが、考えて見ると死は案外身近であることがわかる。

18歳のとき、目が覚めたら車で反対車線を走ってたことあるもんなー^^;


でも実際、自分が死の瀬戸際というか危ないめにあったら思いっきり焦ってジタバタしそうな気がする!^^;




・・・なんかまとまりのない文章になったなー





で、最終的に導かれる結論は「ピンピンコロリが最高!」とかそんな話なんだろうか?^^;





04

24

コメント

野良猫ちゃんの最後の映像



別に死ぬところを撮ろうとか考えたわけではなく、ただ猫が寝てるときにどう動いてるのか観察したくてビデオを回していたので、息を引き取るときの映像が残っている。


一昨日ブログに描いたように、苦しんで死んだのではないかと思っていたが、スエットを蹴飛ばした後もしばらくは呼吸をしていて、苦しんで急死したというよりは、だんだんと呼吸の間隔が長くなっていって最後こと切れた・・・という感じだった。

見ようかどうか迷ったけど・・・



猫を長く飼ってらっしゃる方は、こんな場面に何度も立ち会っているんでしょう

アップするような動画ではないかもしれないが、youtubeに上げようかと思っている。

見るなら見ておいたほうがいいような気もするので。


こんな感じで身内と向き合う日がいつか来るんでしょう・・・


俺が先に死んだりして・・・^^;


05

01

コメント

「寝る」ってほんと一時的な「死」ですよね

ゴールデンウィークなのに仕事中に考えたのですが・・・


甲殻機動隊の草薙素子、じゃなくて「人形使い」みたいに、人間の脳と同じように機能するコンピューターみたいなんが出来たとします。

例えば、私の記憶を完全コピーして、意識をもって以前の私と同じように考え行動できる再現性を備えたサイボーグみたいなんができたとします。

で、メンテナンスを受ければ永遠に生きられるとします。


こんなものができたら大ニュースになりますよね!


でもですよ?

・・・まあ、こんな話はどこがですでにされてるだろうけど自分で思いついたんで書いときますけど、


そんなサイボーグなんてできても、1度でも「寝て」しまったら、その私のコピーであるサイボーグにはなんの価値もないですよね!


本人にとっては完全に無価値!


家族とか周りの人間からみれば、「◯◯さんはサイボーグになって命を失わずにすんだわ!」てかんじでしょうけど、サイボーグで完全コピーできたとしても命をつなげたとは言えませんよね。

血が通った肉体が必要だ!とかそんな話ではないですよ。


が目前の人が、サイボーグに自分のデータをコピーしておいて、苦しんで死ぬのは嫌だから安楽を選択するとする。

で、遠のいていく意識で、

「俺の肉体はんじゃうけど、またすぐにサイボーグとして以前と同じ、いやそれ以上の機能をもって半永久的に生きていけるんだ。なんて素敵な事だろう・・・」

なんて考えながら苦しまず幸せにを迎える。


サイボーグとしての「来世」に期待をしながら幸せにねる・・・


サイボーグの存在価値なんて、本人にとってはこれだけですよね^^;

なんだか、どこかの人達のように、来世を信じて自分の命を投げ出すことと、明日元気に目覚めることを信じて眠りに入ることって、なんだか似てますよね^^;

他人に迷惑かけちゃいけませんけど^^;

生まれ変わりの思想とサイボーグって同じ宗教的価値があるような?






20歳の人間に「記憶を完全に引き継いでサイボーグにしてあげます!」なんて言ってサイボーグにしちゃえば、あとは30歳の人生だろうが80歳の人生だろうが、記憶を全然別のストーリーにしちゃっても本人には判らないわけですからね。


家族も友達もいない孤独な人間なら尚更、サイボーグとして生まれ変わった私が、ちゃんと生身のころの私の記憶を完全コピーしてくれてるのかなんて確認しようがない!


「俺の生身は死んだけど、サイボーグとして命をつないで今ここにいるんだ」という意識さえ無い


いや、サイボーグになってる時点で、延命したか、自分で積極的に機械化を選択したことは自分で分るわけだが、その選択理由やサイボーグとしての「誕生日」はいつか、などの記憶は、入力されたデータにすべて依存しているわけです。




マシンで意識とか記憶を再現できるようになった時点で、個人にとっての「延命」の意味は無くなってしまうでしょう。





だから、サイボーグで永遠の命!なんてのはウソで、そんなものが完成した時点で、多分多くの人達は「生命の一回性」をあらためて強く認識するのではないでしょうか?





・・・いまはまだそんな技術ないから「寝て意識を失う」ことに大した意味を感じないと思うんですが。



この辺の話は、素人的にも刺激的で、考えてると面白いなー^^




05

02

コメント

サイボーグだろうが人間だろうが同じ事だ!


昨日、自分が書いた記事見てて気がついた。


サイボーグに自分の記憶を完全コピーして、生身の自分は死に、サイボーグとして新たに生きることと、

人間の私が、眠くなったから寝て、目が覚めて、昨日と同じ自分であるとなんの疑いも持たずに生きていくこと・・・


これって、どっちでも同じことじゃんか!と気付いた。


20歳でサイボーグになったが、メーカーのうっかりミスで60歳の他人の記憶を書き込まれてしまった、という若者がいても、当の本人は「俺は60だ!」と言い張る。

これと、私達が睡眠から目覚めて「昨日と同じ俺だ!」と思い込んでるのはまったく同じことなわけです!

騙されてても勘違いしてても絶対にわからない!


眠くなったから続きは夜書こう

05

02

コメント

寝ることと死ぬことは同じという話について考えてます

今日も仕事。

ゴールデンウィークは基本明日からなんだな。





前の続きですけど・・・



極端なようだけど、やはり意識がなくなってる状態ってんでいるのと同じですよね。

体はきているんだけども。



「寝るのとぬのは似たようなもんだ」というより、

寝るということは、無防備に自分を投げ出している感じ、と言えばいいんだろうか?


寝るって、無防備ですよね!

寝てるあいだに教われる可能性がある。

だから家の中で鍵かけて寝るんですけどね^^;

いや、身体の危険性というより、意識を一度消してしまうことが無防備だと思うんです。


意識がなくなるって、自分を1度消すってことでしょ。


他人からみれば「ああ、◯◯さんが寝てるな」ということであなたが存していることは確認されるわけですが、

自分で自分を認識できない状態にあるってことは、個人的な体験としては「んでる」わけです。


確認してくれる他人がいなければ、尚更んでる状態。


だから寝ていなくとも、他人と接する機会が少なく孤独な人はどちらかというと「」に少し寄り添ってしまっていることになるのではないでしょうかね?


こう考えると、友達がいなくとも仕事でもなんでもいいから誰か他人と接する時間を作るというのはやはり重要なきがするなー・・・



で、結局一番言いたかったことはなんなんでしょう?^^;



ここでまた少し思いついたんですが、今私は一応「生と死」について私なりに一懸命語っているわけですが、

生と死」という言葉、概念があるから私は「」と「死」の違いについて考えてしまうわけだが、


 「生と死」ってホントにあるのかよ? 


・・・という疑問が今わいてしまいました^^;




まあ、あるんでしょうけどね

俺、死にたくないし・・・^^;



考えることってたくさんあるな!^^





05

03

コメント

要約すると・・・

サイボーグになって延命する際に、他人のデータを入力されてしまい、別人の記憶と意識で生きてしまうこと・・・

私という生身の人間が命を失う。だけど他人は生きている・・・という当たり前の現実。



これ、どっちでもまったく同じことですよね。



ただ、意識と記憶の再生可能なサイボーグという技術の存在は、ぬ前の気休めにはなるでしょうけど。


他人の記憶入れられてもサイボーグになった本人は平気だが、親族や知人はメーカーに文句言うんでしょうね〜^^;




・・・と、いうかですよ!!!


自分の周辺に「あなたは◯◯さんですよね」というふうに自分の存在を知っていてくれてる知人等がいない環境で生活していたとしたら、サイボーグになって延命することにマッタク意味は無いということです!!!


おー自分としては結構な発見!というか、これが一番言いたかったことかも^^



だから、ホント養老孟司先生の言うように「自分1人の」ってないですね!


サイボーグの存在を仮定して考えると理解できる。


基本的に「」というのは他人との関わりの中で意味があるものなんだなと。


だから、常に孤独でいると自分の存在価値を感じなくなってしまいそうですよね。

サイボーグになって延命しても誰も喜んでくれないと・・・^^;


それにサイボーグが個人的に価値があるかというと「完全に無いっ!」ですよね。

サイボーグのメーカーが儲かって喜ぶだけ!

サイボーグになることに価値があるのではなく、ぬときに安心してねるだけの話。

契約を履行しなかったとしても本人は辛くも悔しくもなんともないし・・・^^;






群れていようが孤独であろうが、生身の自分の身体がどう変化するというわけでもないんですけどね^^;


「意識」は、孤独であれば「寂しい・・・」と感じるんでしょうけど。


でも人生の3分の1は寝てて意識無いわけだし、そこまで「意識」を重んじる必要はないのかもしれません。


まあそんな簡単に割り切れないだろうけど。




・・・いや、こう考えていくと、まだまだ思いつくことたくさんありますよ!


まじめにストーリー考えれば結構面白いSF小説書けそうだなぁ^^



05

03

コメント

「生と死」ってあるのかね?




まあ、生と死についての議論なんてさんざんされてるんでしょうけど、素人考えでもいろいろと思うことがあるのでブログに書いておきたいのですよ^^;



・・・意識が完全に戻ることがなければ、個人的には「死んだ」といってもいいんでしょう。

でも、親しい人からすれば、肉体があり、呼吸をしてくれているだけでも「生きてる」といえる。


これが一般的な感情であると思うし、私もそう思います。


でも、さらに言えば、呼吸がとまったとしても親しい人にとっては「生きてる」ことになる。

さらに、さらに突き詰めて言えば、本人の「部品」残っていれば「まだ生きている」ということもできる。


脳死状態と、お骨1個とではいくら死んだ本人といえど大きな差があるわけですが、脳死状態で呼吸をしているというのは、「生きてるっぽく見える」というだけであって、そのものに「意識」「感情」がないという点では一個のお骨とまったく同じなわけです。


だから、他人から見る私の「生死の境」というものに境界線は引けないといってもいいんでしょう。



一方、本人にとっての、個人的な死とは、やはり意識がなくなってしまったときでしょう。

これにはある程度はっきりと死の境界線が引けるのではないでしょうか。



人間は毎日寝ることで意識を失っているわけだから、日々一時的には死んでると言えるわけです。

ただまた目覚めると確信しているから、意識を失うことに恐怖感はない。


病気で死ぬときは、死を意識するわけだから、現在の健康な私からすると「病死」を恐怖と感じはするんですけども・・・

でも実際に病気になって死にかけたこともないので、本当のところどう感じるのかは死ぬときでないと分らないのかもしれません。


重病にかかって何度も苦痛によって意識を失っている状況だったとします。

だとしたら、どの時点で死を迎えるのかなんて本人には判りようがないわけです。

「こんな体だったらもうダメかもしれん・・・」と本人は思っているかもしれませんが、

「この時点で私は死んでしまう!怖くて耐えられない!」というような死の認識の仕方はしないのではないかと思うのです。



こう考えると「死」というものはそもそも存在せず、どういう心理状態で「意識喪失状態」に突入したのか?その心理的状態に左右されて現れたり現れなかったりするだけのものと言えるのではないでしょうか。


「おおっ!うまいこと言った♪」ということで太字にしてしまいましたけど・・・^^;


そして本当に死んだかどうかは本人が判断することはできないわけです。



睡眠という「意識喪失状態」に入るときは、死ぬとは考えないから死を意識することは無いし怖くもない。


でも、実験的にある被験者が拘束され、「いまからあなたに全身麻酔をかけて、そのまま海に放り投げちゃいますけど、痛くも痒くもないから安心してくださいね♪」

・・・なんて言われたら、同じ意識喪失状態であってもその恐ろしさはまったく比較にならないし、死の恐怖は半端じゃない!

「死」が大きく姿を現します。

実際は殺さないわけですが、そこで意識を失った本人は、ほぼ完全な「死」を体験したことになります。


「死」という感覚というか概念は生きているときにだけ体験できるものであって、死を「体験」できるということは「生きてる」ことの他ならないわけだから、「本当に」死んだと後のことなんて誰にも知りようがないし、聴くこともできないと。

「死の概念」で右往左往することはあっても、人間は本当の死を享受できないわけですねー



05

21

コメント

マインドアップローディングなんて個人的には意味がないって!



人間の脳をコンピューターに置き換えることを「マインドアップローディング」というらしい。

ワイアードジャパンのHPをさっき見まして初めてこの言葉を知りました。

私は知識無いので、このカテゴリーの記事で「サイボーグ」と言ってたんですけども^^;



それでですよ!

このマインドアップローディングを取り上げた記事のタイトルが「不老不死のいま」だったんですけど、

すでにこのカテゴリで書きましたが、


マインドアップローディングしたからって不老不死にはならないっ!

と、声を大にして言いたい。


いや、みんな解ってるけど、見出しとして面白いから「不老不死」とかつけてるのかなぁ?




でもあれかぁ・・・

不老不死になれると思い込んでたほうが幸せなんだよな。

不老不死になれると信じて、マシーンとしての「来世」に希望を持ちつつ死ねるのだから・・・




マインドアップローディングが可能になったときのメリットとは・・・?


・才能のある作家に延々と面白い物語を書いてもらう。そのプログラムと化した作家を大量コピーしてたくさん本出させたり脚本書かせたりする。

・才能のあるエンジニアに延々といろんなアイデアや商品を出させる。同じく大量コピーして「分身」どうしで商品開発や企画会議したりして・・・^^;

・死んだらもったいないような才能を持ってる人物をマインドアップローディングして、さらに才能を開花させる。

・遺族が「あの人は死なずに済んだ!」といって喜ぶ。

・人気アイドルのプログラムをアイドルオタクに高値で売りつける。そしてそいつらがプログラムを利用し「◯◯してみた」とかいって「いろんなこと」をする・・・



こんなことしか思いつかないが・・・



で、マズい点は?と考えると・・・


コンピューターウイルスに感染して、延々と激痛が続く!気絶することもできない、死ぬこともできない、みたいな・・・^^;

そのときは鎮痛剤や全身麻酔みたいなプログラムができるのかな?

あと発狂しちゃったりとか。

強制的に衝撃映像やグロ映像が延々と視覚イメージとして眼前に繰り広げられるとか・・・ひ〜!

結局、疾病と治療プログラム開発ののいたちごっこみたいになるんじゃないかな?


まあ、一応人格がプログラムと化したら、ちゃんと死を選択できるぐらいの仕組みも出来上がってるんだろうけども・・・




面白いこと考えましたよ!^^


私、持論として、

「私が寝て、再び目覚め、昨日と同じ自分だと信じていること」と、「私が死ぬ、でも他人は生きている」ことは、どちらも同じことだと考えているのですが、その正しさがこれで証明されるのではないだろうか?




・・・仮に「Aさん」として、マインドアップローディングしたAさんをコピーして2人にしたとします。

その片方を「睡眠」状態にして、そのプラグラム、Aさんを「消去」したとします


結果、Aさんは死にました。


でも、もう1人の「同じ」Aさんは生きている。

しかし同じAさんであっても、生き残ったAさんは死んだAさんからすれば「他人」なわけです。



と、いうわけで、「私が寝て、再び目覚め、昨日と同じ自分だと信じていること」と、「私が死ぬ、でも他人は生きている」ことは、どちらも同じことだ、という私の説の正しさが証明されたのではないでしょうか?



ヤッター♪^0^


05

22

コメント

不老不死の議論自体意味が無いわけか・・・

今昼休み。


現場でのやっすい昼ご飯



昨日、マインドアップローディング不老不死は達成できないみたいなこと書いたけど、それで不老不死とするならそれでもいいんですよね!

逆に、マインドアップローディング不老不死ではない、と主張してもそれはそれで正解だと。


あれですね、不老不死に言及すること自体に意味がないわけですね!


「私が寝て、再び目覚め、昨日と同じ自分だと信じていること」と、「私が死ぬ、でも他人は生きている」ことは、どちらも同じことだ、と考えているならそういう結論になるのに・・・

不老不死は不可能」とか主張すること自体意味がないことに今気付いた。



この手のこと論じてる本があったら誰か教えてくださいな^^;



05

23

コメント

「自分は自分である」という意識の主張に個人差はない


今日は休み。

2WDバイクの製作を進めないといけないのだが、昼過ぎまで考え事してた。

「私が寝て、再び目覚め、昨日と同じ自分だと信じていること」と、「私がぬ、でも他人はきている」ことはどちらも同じことだ、と書いてきたんですが、なにがどう同じなのか説明しろよって話ですね^^;



次の文章は私がツイートした文章なんですが・・・


・・・記憶という「エネルギー」の蓄積はあるものの、寝て一度意識を失い、目覚めて意識活動を始めるときは、誰だってゼロからのスタート。目覚めの時「過去の記憶」さえあればいい。


・・・ 自分が何を言いたかったのか解ってきた。「私」であることを担保するのは意識ではなく「肉体」だ、ということです。ちょっとスッキリ^0^



・・・こういうことかなと。




記憶を含む「意識」が自分である証と考えると、やはり「寝る」というこは「」に等しくなる。

目覚めたときは、記憶を元に自分が誰であるかを知る。

「知る」ではなく自明?であるわけですが。

だから、寝て(意識的には)から目覚め、そこから立ち上がる意識が自分であろうと他人のものであろうと、意識だけを問題にすればどちらでも違いはないと。

「自分は自分である」と思い込んでいれば問題は無い。


「自分は自分である」という意識の主張に個人差はないわけです!


これは突き詰めて話を単純にしているのであって、実際人間一人一人には親兄弟、友人知人がいるわけで、「自分だろうが他人だろうがどっちでも変わらん!私がいようがいまいが大したこっちゃない」というわけにいかないのは当然のことですけど。


でも意識だけを問題にすれば私達は毎日んでるんですよね。



そして逆に、「自分は自分だ」と主張する人間がいるかぎり、私たちは永遠にきているといってもいいわけです。


人間という物の存在の仕方において、個人的にはというものはあまり明確でないかな?



10

18

コメント

ブロガーって肉体を持たないプログラムのよう・・・




今日、昼休みに読みかけの河合隼雄著「コンプレックス」を読んでいたのですが。




二重人格である患者を治療した場合、一方の人格は消えてしまう(顕在化せず無意識化する?)わけだけど、それは言えば1人の人間が死んでしまったと同じなわけです。

これは面白いというかいろいろ考えてしまいます。

とにかく本人にとって生きてるということは「意識がある」ということだなと。

近親者にとっては、肉体があり呼吸しているだけでも生きてるということにはなるのですが。

個人にとっては、生きてるとき、身の危険に直面したときの恐怖や痛みや苦しみ、葛藤だったりそう言うことが「死」というものであって、意識がなくなった状態においては、あたりまえですが自分の死について確認や言及することはできないわけで・・・

二重人格のもう1人の「私」も完全に消え去ったわけではなく、無意識下で本人に何らかの影響をあたえているわけなので完全にいなくなったわけではないのかもしれません。

誰か1人の人間が死んでしまったとしても、その人に何らかの影響を受けているであろう周りの人達が、それ以後も生きていくわけなので、二重人格の一方の人格の死と、肉体をもった1人の人間の死というのはほとんど違いがないようにも思えます。

見た目には肉体を持った人の死というのは大きな出来事で、肉体を失わない(持っていない)人格の消滅というのは大した出来事ではないように思えますが、どちらも同じですよね?

肉体があるかどうかというより、その人格に「社会性」があるかどうかで死の重さはかわってくるのでしょう。

SFっぽい話ですが、肉体をもたないプログラムの人格があったとして、ネットを通じて大々的に言論活動していて共感を得ているとしたら、肉体はなくとも周りは1人の人間とみなすでしょうから。

でも、肉体をもった人間の死は、視覚的に確認できるから周りの人達は死んでしまったことを理解でき悲しむことができますが、肉体を持たない人格、プログラムのような人格は、ネット上で確認できなくなったとしても「故障かな?」「プログラムになんか問題でもでたかな?」くらいにしか思ってもらえないんでしょうね。

はっきりと死を確認できないから悲しめないというか悲しくない。


だれか知らない人のブログが更新されなくなっても「この人、なにかあったかな?」くらいにしか思わないのとちょっと似てるような感じがする・・・^^;



というか、果たして人間は、肉体を持たない人格を人間として認められるのでしょうか???






FRPの材料がそろったので明日からフェンダーとダミータンクの製作にかかるぞ!^^




       

プロフィール

歩き茄子

Author:歩き茄子
主に2輪駆動バイクの製作記。
あと雑記。

 ポチッとな!

ARUKINASU200AWD

たくさんのコメントや宣伝ありがとう^^

youtube

天気予報


-天気予報コム- -FC2-

スポンサードリンク

Designed by

Ad